2016年10月29日


無題

歎異抄を読みました。親鸞さんは五木寛之さんの新聞小説で読んでその後単行本でも読んだんですが、いまいち教義がわからないところがありました。たまたま、五木さんと立松和平さんの対談集「親鸞と道元」を読んで一度読んでみるかと思い立ちました。元々、無神論者で神さんも仏さんもまったく信仰していません。ただ、何かの本で神様は人間が作ったものという一節があってうまいこと言うなあと感心したことがありました。人間は弱いもので何かよりどころが必要なんでしょう。インド発祥の仏教も中国、日本と伝わってそれこそ夥しい人があーでもないこーでもないと理屈をこねまわして今の形になったと思います。ある意味、空理空論の極北です。(信仰されている方、すみません。)歎異抄読んでで思ったのは、南無阿弥陀仏は鎌倉時代の庶民には画期的にうれしい言葉だったんだなあということですね。財産がなくても教養が無くても修行しなくても何と悪行の限りを尽くしても南無阿弥陀仏と唱えれば阿弥陀さんが迎えに来てくれて極楽往生出来るんですから、こんなありがたいものはありません。飢饉や地震、戦乱など乱れた世の中でどうしたものかと右往左往していた庶民に熱狂的に受け入れられるのは当たり前です。死んだ後のことなんて誰にも分りません。 それでも六道から抜け出して極楽往生したいという思いがあったのはやはり生きていくのが大変だった裏返しかもしれません。そのころの人に会って聞いてみたいですね。親鸞さんのようにとことん阿弥陀さんにすがれたらいいなあとは思いますが、正確がわるいのかひねくれているのか私には出来ません。皮肉でも何でも無く宗教をお持ちの方がうらやましいです。


(02:48)

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